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第2話 希望からの裏切り

last update Petsa ng paglalathala: 2026-04-25 10:28:41

「結婚しよう」

ベッドの中で、お互い一糸まとわないまま、そう言われた。

私は23歳になっていた。

そして彼を、『怜央』と呼び捨てにできるほどの関係になっていた。

そんな中での、怜央からのプロポーズだった。

行為の後の、少し気だるい空気。身体の熱が程よく冷め、互いの汗や体液が少しひんやりと感じられる。

同棲のために引っ越したばかりのマンションに、同じく買ったばかりのダブルベッド。引っ越しのために一般的な会社員の平均年収分を費やしても、怜央はまったく気に留めた様子がなかった。

私は、怜央の手に指を一本一本絡めて、「うん」と答えた。

「婚姻届、もらいにいかなきゃ。証人、誰にしよう」

「先に指輪だろう」

「お父さんやお母さんにも話をしないと。お祖父様にも……そうね、例のプロジェクトの債権回収を先に片付けて、手土産にしましょう」

「君は本当に『いいこちゃん』だな」

空いた手で私の前髪を撫でながら、怜央が言う。いつもなら気にならない私のあだ名が、このときだけはなぜか、妙に刺さった。

だが、その違和感もすぐに忘れてしまう。

心臓が、微睡みの中にあるようにゆっくりと脈打つ。私の心と身体が、これ以上ないほどリラックスしている証だった。

(ああ。これでようやく解放される)

私は思った。

怜央は私のことを理解してくれている。

怜央がいれば、私はここ数年の地獄から抜け出せる。5年前は考えもしなかった転職だって可能だろう。

もしかしたら、『あの夢』も叶うかも――。

「ねえ怜央。私ね、やってみたいことがあるの」

「『学校に通いたい』だったか」

「うん。それもね、高校に行きたい。できるなら、お世話になった楓先生のところに行って、あの人のもとできちんと卒業したい」

「お前なら大丈夫だろう。何せ、出会ったころからまるで見た目が変わってない」

「なに、それ。子どもっぽいって言いたいの?」

恋人つなぎをした手に、きゅっと力を込める。

怜央は握った手をほどくと、私の薬指を撫でた。そこに嵌めるべき指輪を、今から想像しているようであった。

男のほうが気にするなんて、ちょっとおかしい。

「……早いほうがいいな」

「じゃあ仕事のスケジュールを調整しなきゃ」

「そういう意味じゃない」

私は顔を上げる。怜央が、いつもの目を私に向けていた。優しげで、いつも真剣で、そして世の理不尽を憎む暗い輝き。

私だけが知る、怜央の目だ。

この目が、「私はひとりじゃない」と信じさせてくれる。

これから、ずっと彼のそばで生きられるのだ。まるで鏡合わせのような私たちは、互いの存在があるからこそ、孤独と理不尽に耐えられる。

私は幸せだった。

「何だか眠くなってきちゃった。私、先に寝るね。続きの話は、また明日にしましょう」

「ああ、おやすみ」

「怜央、愛してる」

「ああ、俺もだ」

怜央の言葉がくすぐったくて、私は微笑む。

(婚姻届の証人欄、お祖父様にお願いしようかしら。きっと怜央が相手なら認めてくださるよね。そうすれば、私と怜央の間に障害はなくなる。そして私は……自由に……)

そんなことを考えているうちに、私の意識は闇に落ちた。

――祖父が亡くなったと知ったのは、その4日後のことだった。

◆◆◆

「怜央、どういうことよ!?」

「そのままの意味だ」

「結婚を白紙にするなんて、納得できない!」

ひと気のないオフィスビルの階段。その踊り場で、私は怜央に訴えかけていた。

グループを統括する絶対権力者だった祖父の急死。それは各方面に大きな混乱をもたらした。

祖父の葬儀が終わって数日経った今でも、職場が動揺していることを肌で感じる。

けれど、それはあくまで会社という大きな枠組みでの話だと私は考えていた。

むしろ、私をこの地獄の世界に放り込んだ祖父がいなくなったことで、私は本当の自由を手に入れたと内心、安堵していた。

それなのに。

怜央に呼び出されたかと思えば、突然告げられたのだ。

『婚約を破棄したい』と。

「理由を話して!」

問い詰める私に、怜央は「わかった」と頷いた。

瞬間、私の背筋にぞくりと冷たい汗が流れる。

怜央の目。私にだけ見せてくれていたはずの、優しくて、真剣で、世の中の理不尽を恨むような目の輝きが、今日は違っていた。

恨みの炎に、染まっている。

まるで、7年前にこの世界へ堕とされたときの私のように。

「君を恨んでいるからだよ、こより」

理解もできず、誤解することすらできない宣告だった。

「俺は会長に……君の祖父に人生を壊された。そのときに決めたんだ。情を捨て、どんな手段を使ってでも成り上がると。それが、俺を地獄に叩き落とした男への復讐になると信じていたからだ」

「でも、お祖父様は」

「そうだ、死んだ。もうこの世にいない。だから君を····必要もなくなった」

息を呑んだ。

裏切りが日常的なこの業界に身を置いていたせいで、私は嫌になるくらいすんなりと理解してしまった。

私は、怜央の復讐に利用されたのだと。

結婚を機に祖父との関係改善に動こうとした私の意志を、彼は踏み台にしたのだと。

胸の奥が、氷の柱で貫かれたように痛くて冷たい。涙が出てこない。このまま泣けなくなったら私は終わりだと、ぼんやりと思った。

「本当に、それだけ?」

ふと、私はそんなことを口走っていた。

怜央の胸元にすがる。

「きっと、何か事情があるんでしょう?」

「ない」

「賢いあなたのことだから、私のためにわざとそう言ってるのでしょう?」

「違う。自惚れるな」

「あなたが恨んでいるのは、世の中の理不尽全部でしょう!? 私と同じように!!」

叫んだ。

一瞬だけ、怜央が虚をかれた顔になる。

彼の広く逞しい胸板を、私は何度も叩いた。

「私とあなたは……同じだと思っていたのに」

···、だ。俺は『いいこちゃん』の君を恨む」

私はその一言にカッとなって、怜央の頬を張った。乾いた音が誰もいない階段にこだまする。

さらに彼の胸ぐらにつかみかかる。

許せなかった。

怜央が、私の存在とこれまでの人生を全否定してきたようで、許せなかった。

「怜央っ!!」

「お別れだ」

逞しい腕が、ぐいと私の前に差し入れられた。

そのまま、私を押しのける。

体重も筋力も違う私は、軽々と後方へ倒された。

その先は、下り階段。

視界が天井を映す。時間の感覚が引き延ばされて、腹の底がひゅっと凍り付く。

「破滅するのは君だけでいい」

怜央の言葉がやけにはっきりと聞こえた。恨みをたたえた暗い瞳、そして、まるで自らが血を流したかのように苦痛に歪む彼の顔が見えた。

お祖父様に復讐できなかったことが、そんなに苦しかったの?

私を裏切ることよりも?

私の目から、涙が一粒、宙を舞った。

怜央との出会いは、私にとって蜘蛛の糸だった。

この地獄から抜け出すためにしがみついた。

その先に理想の世界があると期待して、希望を抱いた。

――私が馬鹿だったのだ。

全身を打ち付けた衝撃と、左足に焼けるような痛みを感じながら、私は再び地獄に堕ちた。

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